リリース関連--------
●1990年3月、ワーナーより1stシングル『愛しの帰国子女』を発表。FM東京のレコメンドに選ばれる。
●5月、2ndシングル『LOVE COMMUNICATION』を発表。
●夏、1stアルバム『SYMPATHIQUE』を発表。
●11月、3rdシングル『僕のクリスマス』、2ndアルバム『love style』が発表となる。
 アルバム『love style』の録音はロンドンで行われ、これを機に小野瀬雅生が正式メンバーとして加入。
 ミキサーはP.I.L.、ジーザス・ジョーンズ等を手がけたクレイグ・レオン。 


TOPIC&LIVE関連--------
●1989年3月、E.R.D.の「インクスティック芝浦」ライヴのアンコールから、バンド名をZAZOUに変更。
●「本枚アポロ・シアター」にて自主イベントを開催。フリッパーズ ・ギター、チャーリー宮毛バンド等と共演。
●「本牧オフィサーズ・クラブ」に、スリー・ディグリーズや、ゴードン・エドワーズ&スタッフ2のオープニング・アクトとして出演。
●サポート・ギタリストに小野瀬雅生を招き「青山CAY」にてリリース・パーティーを行う。
●「本牧イタリアンガーデン」にて月例演奏会を行う。
●「原宿クロコダイル」に出演。
●渋谷「クラブ・クアトロ」に出演。
●1990年夏、パリはバスティーユのライヴハウス「Le Bang Bar」にてフランス初ライヴを行う。ハマのチンピラZAZOUが、クールなパリッ子たちを異常なまでにヒートさせたミラクル&クレイジーな一夜であった。 
●1990年暮れ、「有明MZA」にてロジャー&ZAPPの来日公演のオープニング・アクトを務める。
 ロジャーがZAZOUの感想を「初日はまあまあだったが、二日目はGREAT!」と言ってサムアップした。


その他--------
●1989年10月、青山「スタジオ・ラント」にて翌年5月に発表する『LOVE COMMUNICATION』『CALL ME I'LL BE THERE』、並びに台湾デビューの為のレコーディングが行なわれれる。台湾用に録音されたのは、『LOVE COMMUNICATION』の英語版、未発表曲『ウォーアイニー・ウォーアイニー』、
 スライ&ファミリー・ストーンのカヴァー『RUNNING AWAY』、台湾ロック、台湾民謡のカヴァー等であった。
●1989年11月、台北のマンダリン・ホテルのディスコ「KISS」の落成記念イベントに、元ランナウェイズのジョーン・ ジェットや、台湾のスーパースターのチャオ・チャンらと参加。さらに現地の人気バラエティー数本、歌番組数本の出演に加え、家電メーカー「フェストン」のCF2本の撮影を台北郊外の「チェンゴン・スタジオ」にて行う。
●1990年2月、リッキー坪井が脱退。
●1990年3月、吉永多賀士(吉永事務所)とマネージメント契約、ワーナー・パイオニアと専属契約をそれぞれ締結する。
●1990年3月、横山剣がZAZOUの連絡事務所「CC-KENNY INTERNATIONAL」を横浜の自宅に開設。
●1990年夏、ロンドンからの帰国便の機内で偶然にもP-FUNK ALL STARSの一行と遭遇。横山の着ていた「Do the Right Thing」(Spike Lee)のTシャツに反応したP-FUNK総師・ジョージ・クリントンが自らZAZOUの席に歩みより、数時間に渡って談笑。その流れの中で『love style』の非マスタリング音源をクリントンに聴かせたところ、P-FUNKフレイバーを含む『love style』の楽曲、並びに小野瀬のギター・プレイを絶賛! 汐留サイカの来日公演にメンバー&スタッフ全員が招待され、楽屋にも招かれた。
●1991年2月、廣石、小野瀬が脱退。横山も脱退する意志だったが、バンド責任者としての残務整理の為、数日間残留するが、間もなくZAZOUの活動を停止させる。
●横山剣は「バンドはもうこりごり!」と作曲屋稼業をスタートさせる。
ところが、その後、まもなく廣石率いるR&Bバンド(小野瀬、洞口も参加)に横山が誘われることに・・・。
 「ゲストの雇われヴォーカルということなら・・・」と、曖昧な返事。


ZAZOUラインナップは以下の通り。
(1989)横山剣(vo)、廣石惠一(ds)、リッキー坪井(g)、
 佐々木あつし(b)、池田賢司(key))。
(1990)横山剣(vo)、廣石惠一(ds)、小野瀬雅生(g)、
 佐々木あつし(b)、池田賢司(key))。
(1991)横山剣(vo)、佐々木あつし(b)、池田賢司(key)。